真言密教 犬鳴山七宝瀧寺の追記 (NHKのど自慢 大阪府泉佐野市分) [歴史]
筑豊炭田の筑豊とは? 筑前国と豊前国(ぶぜんのくに) [歴史]
前回、筑豊炭田は、律令国の
筑前国と豊前国にまたがっていた
ことを確認しました。
九州の律令国には筑前、豊前、肥前、
筑後、豊後、肥後と、
前後のつく国名が多いですね。
筑前国や豊前国について教えてください
7世紀末、国境調査事業が
成された時期(690年頃)に、
それまで筑紫・肥(火)・豊と呼ばれていた
地域の前・後の分割が確定し、
筑前・筑後・肥前・肥後・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)
の北部九州六国が誕生しました。
筑紫国は福岡県の(東部を除く)
大部分にあたります。
広義には九州全域を
指すこともありますが、
一般には筑前、筑後の二国をいいます。
「筑紫」の由来については、陸地の終わり(尽くし)
という説をはじめ、他にもいろいろな説があるようで、
明確な説は定まっていないようです。
筑前国には大宰府(だざいふ)が置かれ、
那ノ津(なのつ)<博多港>が存在し、
大陸の門戸としての重要な位置を占めていました。
また、豊国(とよのくに)は福岡県東部と
大分県全域をさします。
豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)によれば、
景行天皇(第12代天皇 実在かどうかは不明)の時代、
この地の白鳥が餅や里芋に変化したので、
部下が天皇にこの里芋を献じたところ、
「天の瑞物(ずいぶつ)、土の豊草なり」と喜び、
この地を「豊国(とよのくに)」と名付けました。
もう一つの前後の付く肥国(ひのくに)については、
火の国・肥の国とも書きますが、
火の国と書いた場合は、阿蘇山を擁する肥後
(あるいは熊本県)の意味で
使われることが多いようです。
この地方は元々火山が多いことから
「火の国」と呼ばれ、
転じて「肥の国」となり、さらに
前・後に分けられ「肥前」「肥後」
となりました。
肥前国の長崎には雲仙普賢岳、
肥後国には阿蘇山があるからです。
有明海を挟むことから、もとの肥国は
肥前国と肥後国を合わせて一つの国
と考えていたというよりも、
一地方と捉えていたと考えらたようです。
このように、九州(西海道)は、
古くは筑紫(つくし)、豊(とよ)、火(ひ)、
日向(ひむか:古い呼び方)の四国でしたが、
のちに筑前・筑後、豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)、
肥前(ひぜん)・肥後(ひご)、
日向(ひゅうが)・大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)
の九国(九州)となりました。
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筑前国と豊前国にまたがっていた
ことを確認しました。
九州の律令国には筑前、豊前、肥前、
筑後、豊後、肥後と、
前後のつく国名が多いですね。
筑前国や豊前国について教えてください
7世紀末、国境調査事業が
成された時期(690年頃)に、
それまで筑紫・肥(火)・豊と呼ばれていた
地域の前・後の分割が確定し、
筑前・筑後・肥前・肥後・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)
の北部九州六国が誕生しました。
筑紫国は福岡県の(東部を除く)
大部分にあたります。
広義には九州全域を
指すこともありますが、
一般には筑前、筑後の二国をいいます。
「筑紫」の由来については、陸地の終わり(尽くし)
という説をはじめ、他にもいろいろな説があるようで、
明確な説は定まっていないようです。
筑前国には大宰府(だざいふ)が置かれ、
那ノ津(なのつ)<博多港>が存在し、
大陸の門戸としての重要な位置を占めていました。
また、豊国(とよのくに)は福岡県東部と
大分県全域をさします。
豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)によれば、
景行天皇(第12代天皇 実在かどうかは不明)の時代、
この地の白鳥が餅や里芋に変化したので、
部下が天皇にこの里芋を献じたところ、
「天の瑞物(ずいぶつ)、土の豊草なり」と喜び、
この地を「豊国(とよのくに)」と名付けました。
もう一つの前後の付く肥国(ひのくに)については、
火の国・肥の国とも書きますが、
火の国と書いた場合は、阿蘇山を擁する肥後
(あるいは熊本県)の意味で
使われることが多いようです。
この地方は元々火山が多いことから
「火の国」と呼ばれ、
転じて「肥の国」となり、さらに
前・後に分けられ「肥前」「肥後」
となりました。
肥前国の長崎には雲仙普賢岳、
肥後国には阿蘇山があるからです。
有明海を挟むことから、もとの肥国は
肥前国と肥後国を合わせて一つの国
と考えていたというよりも、
一地方と捉えていたと考えらたようです。
このように、九州(西海道)は、
古くは筑紫(つくし)、豊(とよ)、火(ひ)、
日向(ひむか:古い呼び方)の四国でしたが、
のちに筑前・筑後、豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)、
肥前(ひぜん)・肥後(ひご)、
日向(ひゅうが)・大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)
の九国(九州)となりました。
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水沢うどんの水沢観音 [歴史]
前回、水沢うどんは水沢観音への参拝者に
振舞われたことが始まりであることを確認しました。
水沢観音について教えてください
推古天皇、持統天皇によって創建された
由緒ある天台宗の寺院です。
坂東三十三箇所観音霊場の第十六番札所、
十一面千手観音菩薩を本尊として、
霊験あらたかな寺であり、
県指定六角二重の塔を備え
門前には美味しいうどんを
食べさせてくれる店が並んでいます。
広い境内は本堂・六角堂・山門・釈迦堂などがあります。
観音様とは、どのような人ですか
仏教の開祖は釈迦であり、
実在の人物であるインドの
ゴーダマ・シッダールタという人です。
このお釈迦様が修行の後に悟りを開き、
仏(仏陀、釈迦如来)になりました。
このように修行によって悟りを開いた人を
如来(阿弥陀如来、阿弥陀仏)といい、
悟りを開く前の、修行中の者を
菩薩と言います。
観音様はこの菩薩様のことで,
観音菩薩のことです。
また観音様は悟りを開く前なので、
割と派手なひらひらの布をまとっ仏像で、
如来様は悟りを開いた後なので、
地味な布をまとった仏像である
との見方があるそうです。
機会があればご確認ください。
<菩薩様や如来様には色々な種類の偶像がありますので、
機会があれば改めてレポートしてみたいと思います。>
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振舞われたことが始まりであることを確認しました。
水沢観音について教えてください
推古天皇、持統天皇によって創建された
由緒ある天台宗の寺院です。
坂東三十三箇所観音霊場の第十六番札所、
十一面千手観音菩薩を本尊として、
霊験あらたかな寺であり、
県指定六角二重の塔を備え
門前には美味しいうどんを
食べさせてくれる店が並んでいます。
広い境内は本堂・六角堂・山門・釈迦堂などがあります。
観音様とは、どのような人ですか
仏教の開祖は釈迦であり、
実在の人物であるインドの
ゴーダマ・シッダールタという人です。
このお釈迦様が修行の後に悟りを開き、
仏(仏陀、釈迦如来)になりました。
このように修行によって悟りを開いた人を
如来(阿弥陀如来、阿弥陀仏)といい、
悟りを開く前の、修行中の者を
菩薩と言います。
観音様はこの菩薩様のことで,
観音菩薩のことです。
また観音様は悟りを開く前なので、
割と派手なひらひらの布をまとっ仏像で、
如来様は悟りを開いた後なので、
地味な布をまとった仏像である
との見方があるそうです。
機会があればご確認ください。
<菩薩様や如来様には色々な種類の偶像がありますので、
機会があれば改めてレポートしてみたいと思います。>
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山の麓(ふもと)の大和国 ヤマトの歴史 [歴史]
建国記念の日にあたり、
神武天皇がヤマト朝廷を作ったことは確認しました。
今回はその本拠地大和国についてレポートします。
大和国は五畿内の1国で
現在の奈良県になります。
国府は今の大和郡山市に置かれ,
国分寺は東大寺。
別称「和州」。
大和政権のおこったところで,
平安遷都まで,国内のどこかに
皇居がいとなまれることが多かったようです。
「ヤマト」について教えてください
「やまと」の語源は諸説ありますが、
その中に「山のふもと」という説があります。
「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamato"
(山のふもと)であり、
古代の「大和」と一致します。
古墳時代頃に漢字文化が流入すると、
「やまと」の語に対して
「倭」の字が当てられるようになりました。
中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して
「倭」と呼んでいましたが、古墳時代に倭を
「やまと」と称したこは、
「やまと」の勢力が日本列島を代表する
政治勢力となっていたことの現れとされます。
紀元前後頃から7世紀末頃に国号を
「日本」に変更するまで、
日本列島の政治勢力も
倭もしくは倭国(わこく)と自称しました。
律令国名に使用される「ヤマト」とは、
元々は「倭(やまと)、
大倭(おおやまと/やまと)」
等と表記して奈良盆地東縁の
一地域を指す地名でした。
(狭義のヤマト)
その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や
河内方面までを支配するようになると、
その地域(後の近畿・畿内)もまた
大和と呼ばれるようになりました。
さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半
(東北地方南部から九州南部まで)
にまで及ぶに至り、それらを総称して
大和と呼ばれるようになりました。
律令国である大和国について教えて下さい
そして、ヤマト王権の本拠が所在した
奈良盆地周辺を範囲とする律令国大和国は
律令制定の際に表記を
「大倭国(やまとのくに)」
として成立したとされています。
初めは「倭(やまと)」と書きましたが、
元明天皇の治世(710年頃)に
国名を好字を二字で用いることが定められ、
倭と同音の好字である「和」の字に
「大」を冠して「大和」と表記し
「やまと」と訓ずるように取り決められました。
そして757年(天平宝字元年)
橘奈良麻呂の乱直後に
「大倭国」から「大和国」へ
変更が行われたと考えられています。
平安時代以降も東大寺・興福寺・
春日大社など大寺社の勢が強く,
荘園が多くありました。
江戸時代には幕府が奈良奉行をおいて
直接支配したほか,7藩がおかれました。
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神武天皇がヤマト朝廷を作ったことは確認しました。
今回はその本拠地大和国についてレポートします。
大和国は五畿内の1国で
現在の奈良県になります。
国府は今の大和郡山市に置かれ,
国分寺は東大寺。
別称「和州」。
大和政権のおこったところで,
平安遷都まで,国内のどこかに
皇居がいとなまれることが多かったようです。
「ヤマト」について教えてください
「やまと」の語源は諸説ありますが、
その中に「山のふもと」という説があります。
「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamato"
(山のふもと)であり、
古代の「大和」と一致します。
古墳時代頃に漢字文化が流入すると、
「やまと」の語に対して
「倭」の字が当てられるようになりました。
中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して
「倭」と呼んでいましたが、古墳時代に倭を
「やまと」と称したこは、
「やまと」の勢力が日本列島を代表する
政治勢力となっていたことの現れとされます。
紀元前後頃から7世紀末頃に国号を
「日本」に変更するまで、
日本列島の政治勢力も
倭もしくは倭国(わこく)と自称しました。
律令国名に使用される「ヤマト」とは、
元々は「倭(やまと)、
大倭(おおやまと/やまと)」
等と表記して奈良盆地東縁の
一地域を指す地名でした。
(狭義のヤマト)
その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や
河内方面までを支配するようになると、
その地域(後の近畿・畿内)もまた
大和と呼ばれるようになりました。
さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半
(東北地方南部から九州南部まで)
にまで及ぶに至り、それらを総称して
大和と呼ばれるようになりました。
律令国である大和国について教えて下さい
そして、ヤマト王権の本拠が所在した
奈良盆地周辺を範囲とする律令国大和国は
律令制定の際に表記を
「大倭国(やまとのくに)」
として成立したとされています。
初めは「倭(やまと)」と書きましたが、
元明天皇の治世(710年頃)に
国名を好字を二字で用いることが定められ、
倭と同音の好字である「和」の字に
「大」を冠して「大和」と表記し
「やまと」と訓ずるように取り決められました。
そして757年(天平宝字元年)
橘奈良麻呂の乱直後に
「大倭国」から「大和国」へ
変更が行われたと考えられています。
平安時代以降も東大寺・興福寺・
春日大社など大寺社の勢が強く,
荘園が多くありました。
江戸時代には幕府が奈良奉行をおいて
直接支配したほか,7藩がおかれました。
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